『京都ぎらい』に登場した『洛中生息』の感想とか

2016年7月4日

京都の洛中人士は相当恨まれている

京都ぎらい』(井上章一・著/朝日新聞出版・刊)という本について、コラムを書いた。フムフムで公開された記事は、Yahoo!のネタりかにも掲載される。

京都ぎらいが暴露。観光客に知られたくない古都のウラ事情 | [フムフム]

京都ぎらいが暴露。観光客に知られたくない古都のウラ事情 – ネタりか

ネタりかのコメント欄には、どこからともなく京都人にたいする怨嗟が集まってきたのが興味ぶかい。いくつか引用する。(ほかにも20コメントほどある)

読者の声

◆Aさんの場合

京都の桂から大阪府下に嫁ぎ、同じ京都出身というご近所さんと仲良くしてもらってました。
ひょんなことから私が桂出身だと知り
「あんなとこ京都やない。嘘つかれてた」
と散々陰口を言われ以後無視された私としてはよく理解出来る。
そのお方は京都二条城お近くの方でした。
桂出身を京都出身と言えないのならどう言えばいいのか?
京都出身の人が怖い

ネタりかのコメント欄から引用

◆Bさんの場合

ほんまにそう思う。宇治、城陽、亀岡は間違いなく【京都違う】て言われる。
市内でも、山科、伏見は必ず言われるが、桂とか、いいとこなのに言う人はいる。
壊れそうな仕舞た屋に住んでる年寄りでも平気で言うから驚く。
あと、【滋賀から来はったん?遠いなあ】も良く言います。電車で10分やん。

ネタりかのコメント欄から引用

洛中生息をうらめしげに読む

『京都ぎらい』のなかで、著者の井上章一が、フランス文学者の杉本秀太郎(すぎもと・ひでたろう)から「侮辱された」「イケズをされた」と思いこむシーンがある。

右京区嵯峨野の出身だった井上が、おなじ京都市の中京区の300年つづく名家の9代目当主である杉本から「(嵯峨といえば)昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」と面とむかって言われた、というものだ。

井上は、杉本秀太郎の著書『洛中生息』の「洛中」というフレーズあげつらい、やつあたり気味に『洛中生息』本編に横溢する「正統な京都人オーラ」を憎々しげに語っている。

『洛中生息』の読書メモ

以下は、『洛中生息』(杉本秀太郎・著/みすず書房・刊/1976年初版)の気になった文章を転載したものだ。広範囲にわたっており、もはや引用とは言いがたい。判断は権利者に委ねる。

※Pはページ番号のこと

【P003】
京の町のどまんなかにある私の家からも

【P007】
京都の町なかの家は、

【P023】
京の町なか

【P024】
静かだ。だから私は休日にわざわざ大原や嵯峨野まで遠出しようとは思わないが、休日にかぎって、町のなかをゆっくり歩くために、家からそとに出たくなる。

【P25】
青塗りのベンチが

【P035】
京都の町のまん中、いわゆる下京古町には

【P058】
錦の八百屋までクレッソンを買いに行くとき

【P086】
少しはずれると、京都の町は妙にさびれている

【P108】
休日の町なかは

【P112】
ところで九やどは空也堂の縁日である。九の日が縁日と決まったのは、京都人らしいことば遊びの結果なのであろう。

【P150】
なぜなら、一枚の古絵葉書は、かつて京都に都会というものがあったことを告げているからである。

私には、いまの京都のほうが逆に夢まぼろしであって、かつてあった都会の幻影がいまの京都にほかならないということほど確かなことはないような気がする。

【P190】
捕捉すると、京都の町なかで生まれ、いまも同じ場所で暮らしている私にとって、京都は決して観光の町ではなく、単に生活の町である。観光客が道をたずねたら、私はごく親切に道を教えるが、そのことと、観光ということに対して極めて水くさい気持を抱きつづけていることとは、私において格別に矛盾はない。

【P199】
もともと京都人の夏涼の法は、霊の信仰行事に托した遊楽によって暑さを忘れる法か、さもなければ、一種の見立ての方式にもとづいているのだ。

【P204】
私は町のどまん中、六角堂のへそ石の、少々南方に住んでる。

※「六角堂」は中京区にある頂法寺の通称

【P222】
『洛中書問』は、幸いに仏文専攻三十人余りの中に私が入ったので、お祝だといって人が呉れたのであった
━━この本、うちに二冊あるよって、一冊あげまっさ。
というのが、人の口上だが、それは少し奇妙な抑揚の京都弁であった。

【P225】
住めば住むほど京都は狭いが、心身のともに居住まう空間も、また狭いようである。

【P240】
いかにも、たった一年で京都がそうひどく変ったはずもなし、渡欧まえに、京都を今も美しい町だと思っていたわけでもない。だが、ほんとうにこれが私の京都であり私の日本だったのかという名状しがたい痛憤が、三条四条を歩くときも市電に乗っているあいだも、私を身悶えさせたのは事実なのだ。

【P275】
京都の町なかに住む私が、しばしば散歩の道すがら立ち寄っていた六角堂の境内には、縁結びの柳というものがあった。

むかしの京都にセミはいなかった?

【P203】に「虫の異変」と題した随筆がある。

杉本秀太郎いわく、新選組をあつかったテレビドラマ等において、夏季における壬生の屯所シーンに「蝉の声」が聞こえるのは、時代考証としておかしいと述べている。

杉本の記憶によれば、京都の町なかで「蝉が鳴く」ということはなかったという。聞こえるとしたら東山の清水あたり、という認識だった。

しかし随筆を書いている頃(1974年ごろ)に、京都のどまん中である六角堂(中京区にある頂法寺の通称)に位置する自宅の庭で「みんみん蝉」の声を聞いてしまった。

誰かが逃がしたものかもしれないと考えたが、京都御所でも聞いたので、時代による変化かもしれないと述べている。

「大文字焼き」と「五山の送り火」

【P054】に「矢田観音堂」と題した随筆がある。

矢田観音の祭日は、8月17日と18日。これは「五山の送り火」の翌日だという。京都の大文字山に火が灯されるのは毎年8月16日だ。

五山の送り火については、『京都ぎらい』にて井上が問題提起をおこなっている。

たしかに、祖先をおくる盂蘭盆(うらぼん)のしめくくりなので「送り火」が正しい。しかし、井上が生まれそだった嵯峨(嵯峨野)では「大文字焼き」という呼び方で通っていたはずなのに、洛中人士たちは、さも昔から「五山の送り火」という名称しか存在しなかったような顔をしているのが気に食わない、というものだ。

つぎのような史実がある。1891年の4月から5月にかけて、ロシア皇太子ニコライ(のち皇帝ニコライ2世)が日本をおとずれたとき、当時の京の人たちは、盂蘭盆とは関係のない5月のさなかに、大文字山に「大」の火をともして歓迎した。

……ということを取り上げて、井上は「むかし節操もなく大文字山を焼いたことがあるくせに、いまさら大文字焼きの名称をなかったことにするのは無理がある。洛中人どもめ」と主張している。

ちなみに、ニコライは同じ年の5月11日(京都訪問の直後)に日本人警察官に襲われて死にかけた。いわゆる大津事件だ。

洛中生息


京都ぎらい (朝日新書)

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