感想『凍りの掌』 うちのじいちゃんもシベリア抑留帰還者だった

2016年5月6日

おれの祖父が死んだ。いまから10年ほど前に。80歳すぎまで元気だった。すい臓ガンを患ってからはあっというまだった。ひとつ訊いておきたかったことを聞きそびれた。シベリア抑留体験のことだ。

おれのじいちゃんは満州に行ったらしい。敗戦後に捕虜としてシベリアに連行されたらしい。くわしく訊いたことがないのである。

いや、あえて訊かなかった。日本軍の兵士だったのか、それとも満蒙開拓団の農業青年なのか。それすらもよく知らない。もしも兵士として征ったのならば、孫に知られたくないこともあるだろうから、おれは訊ねるのをためらっていた。

いずれにせよシベリア抑留者だったことは間違いない。じいちゃんの家には、海部首相の署名入りの「シベリア抑留」云々という賞状が飾ってあったからだ。

「戦後」捕虜であるシベリア抑留者は、南方戦線捕虜たちのような金銭的補償が受けられなかった。日ソ共同宣言のときに補償請求権を放棄したからだ。日本政府はそのことを盾にしてシベリア抑留帰還者たちへの補償を拒否し続けた。最高裁まで争われたが「憲法が想定していなかった事例なので棄却する。あとは立法府の判断に任せる」という判決を下した。

シベリア抑留者は50万~60万人であり、本来ならば1人につき数百万円の金銭的補償(強制労働の賃金)を支払いを受けられるはずだった。しかしソ連への賠償請求権を放棄した日ソ共同宣言を根拠に、日本政府はシベリア帰還者たちへの戦時補償金の支払いを拒否し続けている。

すなわち「海部俊樹首相の署名入り感謝状」は、シベリア抑留者たちへの賠償責任をごまかすための賞状であるが、おれのじいちゃんは額縁にいれて大切に飾っていた。

じいちゃんが世を去ってから10年経って、ようやく調べてみる気になった。こうの史代の「ヒロシマもの漫画」を読んで面白かったので、シベリア抑留のこともマンガで学びはじめようと思った。


新装版 凍りの掌 シベリア抑留記

「こおりのて」と読む。悲惨な描写が多いので、日本むかしばなしみたいな絵柄のほうが目をそむけずに読み進められる。

はじめ自費出版(創作同人誌)で発行した。のちに小池書院や講談社でコミック単行本化されたという。1巻で完結している。

わかりやすかった。コミックの巻末には参考文献リストを収録している。その中から、岩波新書『シベリア抑留 未完の悲劇』を読んでみた。


シベリア抑留―未完の悲劇 (岩波新書)

『凍りの掌』で描写されていたことを裏付けるさまざまな資料をもとに、シベリア抑留について総括をおこなっている。タイトルにあるとおり、シベリア帰還者たちの活動はいまだ終わっていない。

ソ連が日本人捕虜をシベリアへ連れて行ったのは、自国の労働力をおぎなうためだ。敗戦(1945年)から10年ものあいだソ連はシベリア抑留者の多くを日本へ帰還(ダモイ)させなかった。日ソ国交正常化交渉において北方領土を返還しないための交渉材料(人質)としても利用していた。

日本が無条件降伏した1945年の8月下旬に、関東軍総司令部がソ連極東軍総司令部にむけて「わたしたちは負けました。ごめんなさい。せめてものおわびに日本軍の兵士を労働力として使っても良いです。命だけは助けてください(意訳)」という文書を提出している。当時のソ連をつけあがらせた要因のひとつだ。

ソ連の捕虜になったあとも、関東軍の軍制(命令系統)は維持された。数十万人もの日本兵捕虜たちの統率を任せるわりに、日本軍将校(指揮官クラス)は労働を免除されて、温かい部屋と上等な食事を与えられていた。つまり下級兵士は、抑留者になっても旧軍時代の上官に従わねばならなかった。

下級兵士は零下30℃の環境で強制労働させられた。多くの捕虜たちが栄養不足と病気のために死んでいった。死因のうちもっとも多かったのは腸チフスや発疹チフスや赤痢。水も凍る寒さのため洗濯できないので糞まみれの軍服を身につけたまま息絶えたものが多かったという。

次いで多かったのが栄養失調による絶命。昨晩まで元気だったのに、夜の寒さに耐えられずそのまま目覚めないという死に方である。

肺結核などの者たちは病院に収容されたので、チフスよりも死亡者が少なかった。

凍土にスコップ先が通らないので、死体用の墓穴(はかあな)は「夏季」にまとめてたくさん掘っておく。それでも足りなくなるほどシベリアでは日本人がたくさん亡くなった。

日本語で書かれたプロパガンダのためのタブロイド紙「日本新聞」の発行部数は20万部である。抑留者の3人に1人が読んでいた。発行ペースは週3回。その内容は共産主義寄りの報道ならびにスターリン礼賛であったが、活字やニュースに飢えていた日本人にとっては貴重な情報源だったという。

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